若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴鳴き渡る  山部赤人

《わか》の浦《うら》に潮《しほ》《み》ち来《く》れば潟《かた》を無《な》み葦辺《あしべ》をさして鶴《たづ》《な》き渡《わた》る 〔巻六・九一九〕 山部赤人

 赤人の歌続き。「若の浦」は今は和歌の浦と書くが、弱浜《わかはま》とも書いた(続紀)。また聖武天皇のこの行幸の時、明光の浦と命名せられた記事がある。「潟」は干潟《ひがた》の意である。
 一首の意は、若の浦にだんだん潮が満ちて来て、干潟が無くなるから、干潟に集まっていた沢山の鶴が、葦の生えて居る陸の方に飛んで行く、というのである。
 やはり此歌も清潔な感じのする赤人一流のもので、「葦べをさして鶴《たづ》鳴きわたる」は写象鮮明で旨いものである。また声調も流動的で、作者の気乗していることも想像するに難くはない。「潟をなみ」は、赤人の要求であっただろうが、微かな「理」が潜んでいて、もっと古いところの歌ならこうは云わない。例えば、既出の高市黒人作、「桜田へ鶴鳴きわたる年魚市潟《あゆちがた》潮干《しほひ》にけらし鶴鳴きわたる」(巻三・二七一)の如きである。つまり「潟をなみ」の第三句が弱いのである。これはもはや時代的の差違であろう。この歌は、古来有名で、叙景歌の極地とも云われ、遂には男波・女波・片男波の聯想にまで拡大して通俗化せられたが、そういう俗説を洗い去って見て、依然として後にのこる歌である。万葉集を通読して来て、注意すべき歌に標《しるし》をつけるとしたら、従来の評判などを全く知らずにいるとしても、標のつかる性質のものである。一般にいってもそういういいところが赤人の歌に存じているのである。ただこの歌に先行したのに、黒人の歌があるから黒人の影響乃至模倣ということを否定するわけには行かない。
 巻十五に、「鶴が鳴き葦辺をさして飛び渡るあなたづたづし独《ひとり》さ寝《ぬ》れば」(三六二六)、「沖辺より潮満ち来らし韓《から》の浦に求食《あさ》りする鶴鳴きて騒ぎぬ」(三六四二)等の歌があり、共に赤人の此歌の模倣であるから、その頃から此歌は尊敬せられていたのであろう。
 なお、「難波潟潮干に立ちて見わたせば淡路の島に鶴《たづ》わたる見ゆ」(巻七・一一六〇)、「円方《まとかた》の湊の渚鳥《すどり》浪立てや妻呼び立てて辺《へ》に近づくも」(同・一一六二)、「夕なぎにあさりする鶴《たづ》潮満てば沖浪《おきなみ》高み己妻《おのづま》《よ》ばふ」(同・一一六五)というのもあり、赤人の此歌と共に置いて味ってよい歌である。特に、「妻呼びたてて辺に近づくも」、「沖浪高み己妻|喚《よ》ばふ」の句は、なかなか佳いものだから看過《かんか》しない方がよいとおもう。